「いじめ」という言葉とは基本、無縁だと思っていました。 当時、小学生だった私は、学年が上がるにつれ妙な遊びが流行りだしていることに気が付いていました。教室の隅で読書をしているクラスメイトの悪口は、よく耳に入りました。みんなより少し体の大きい子はしつこいくらいにからかわれ、その子に触ると菌が付くと騒がれていました。

 それでも私は、友達を作るのは得意な方だったし、たとえ加害者になったとしても、被害者になることなんて一生ないと思っていました。そこで、幼いころから正義感の強かった私はクラスで気の弱くおとなしい子たちを集めてグループを作りました。初めは遊んであげているつもりだった私ですが、日を重ねるうちに彼らは本当の友達になり、毎日がとても楽しくなっていったのを覚えています。

 そんなある日、グループ内で小さなもめごとが起こりました。それは本当に些細なことでしたが、グループ内の誰からも賛同されなかった私は悔しくなって教室を飛び出しました。休み時間の間、一人で冷静に考え、私も悪かったと反省しました。しかし謝りに戻った教室は、もう私が知っているあの教室ではありませんでした。仲の良かった友達はケンカの内容をみんなに話していました。

 私の味方は、その日を境にいなくなりました。  

その後は毎日が地獄でした。絵にかいたようないじめはなかったものの、給食で席をくっつける時は私の机だけ離され、死ねと書かれた紙が自分の椅子に置かれていることもありました。休み時間には私の机を触った子がまるでその手が汚れているかのように別の誰かの肩に「それ」をこすりつけ、私の菌は鬼ごっこを引き起こしました。 毎日が辛くて、辛くて、もう死にたいと思っていました。しんどい、どうして私ばっかりこんなめにあうんだろう、私の何が悪いんだろう。ある時は原因を自分の服装にし、母に無理を言って流行りの服を買ってもらい、ある時はみんなに言われる「ブタ」や「デブ」という言葉を気にしてダイエットをしました。 結局、卒業まで状況は変わりませんでした。卒業式当日も、親戚に借りて着ていった私の勝負服は指をさされて笑われました。式中、後ろからパイプ椅子を蹴られ小さな音がしていたのを未だに覚えています。

 いじめにあっていた頃、私は自分のことを弱いと思っていました。私がこんなに弱いからいじめにあうんだ、と。 現在私は高校を卒業し、新しい生活に胸躍らせる日々を送っています。たくさんのかけがえのない友達を持ち、いじめの原因が私ではなかったことに気が付きました。小学校を卒業した後もいろんなことがありましたが、今の私を作っているのはあの時のいじめの経験です。あの経験が人の気持ちを考えられる「私」を作っています。もちろん、あの頃の私にこんな言葉をかけてもそんな風には思えなかったでしょう。これは今いじめにあっていないから、あれほどの辛いことがないからこそ言えるずるい言葉です。

 それでも、今、人間関係で悩んでいる人にはぜひ知っておいてほしいと思うのです。あなたは弱くないという事。充分胸を張れる生き方をしているという事。辛さの原因はあなたでもいじめっ子でもなく、関係性の中にあるという事。耐えることや、人に相談することは逃げることではないという事。前を見て生きることだけがすべてじゃないという事。

 学校を休んでもいいんです。辞めてしまってもいいんです。親に話して悲しまれてもいいんです。だからすべてが終わって、良い経験だったと思える日が来たら、まだまだそうは思えないという誰かを、あなたが手助けしてみてください。そこからよい循環が生まれ、いつの日か「いじめ」がなくなることを信じています。私の文章が誰か一人にでも私の想いを届けていれば嬉しいです。

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